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泊小学校教倫同窓会・泊文化交流協会
1.72年の時を超えて、遺骨収集の模様(H29.1/18~20)
ある遺骨収集ボランティアの沖縄戦戦没者の遺骨収集作業に、あるきっかけで密着した。場所は八重瀬町安里の小高いところにある埋没壕での作業である(H29.1/18~20)。そこで沖縄戦当時の日本兵とみられる遺骨1体が完全な状態で発見された。頭蓋骨、肩甲骨、尾てい骨、大腿骨、上腕骨などほぼ完全な状態であった。あごの骨には歯も複数残っていた。奥歯は銀冠で治療の跡があり、のどぼとけもあった。これだけの遺骨があればDNA鑑定も容易と思われる。また、遺留品として、水筒、靴底、飯ごうのふた、銃弾、小銭なども発見された。さらに遺骨と遺留品を保管している戦没者遺骨収集情報センターが後日水筒を洗浄していたところ、なんと「村本福次」の名前が彫られたお守りと思われるものも見つかった。裏には大日如来像が彫られていた。このお守りは独立混成第44旅団工兵隊のこの壕に当時入っていた、村本福次隊長とみてほぼ間違いないと思われる。
72年の時を超えて、村本隊長の姿がはっきりとよみがえってきたのである。ただし、発見された遺骨は村本隊長のものだとはまだ断定はできない。生き残りの方が書いた資料を見ると、当時壕には村本隊長の外、負傷して動けなかった兵士も数名いたという。今後、厚生労働省の呼びかけでご遺族を探し出し、DNA鑑定をして遺骨が誰であったか特定されるだろう。なお、村本隊長のご遺族は福岡県にいることが分かっている。一刻も早く遺骨がご遺族のもとに帰るのを祈らずにはいられない。合掌。遺骨収集ボランティアの皆さんに感謝。
(写真・文 2期生;真喜志)
(1)遺骨収集作業
(1)遺骨収集作業
遺骨収集作業のボランティアは、1/18にまず村本福次大尉を長とする独立混成第四四旅団工兵隊の将兵及び軍に協力した住民併せて二百余名を祀っている萬朶之塔(ばんだのとう)にお参りし、献花、焼香して御霊を慰霊した。
その後、塔の近くのうっそうとした雑木が繁る小高い場所にあるにある埋没壕へ移動し、遺骨収集作業を開始した。ボランティアは沖縄県人も2名参加した。

(2) 壕内での作業
埋没壕は当初、30cm平方の小さな穴を人が出入りできるように1m程度に広げ、中に入り土を掘っていった。
しばらくして遺骨が見つかったので、まず八重瀬町と戦没者遺骨収集情報センターに連絡し、遺骨収集作業を継続してよいか確認を取った。
関係機関から了解が得られたので、翌日1/19に遺骨収集作業に本格的に着手し、日本兵と見られる完全な状態の遺骨一体と多数の遺留品を発見した。
埋没壕は当初、30cm平方の小さな穴を人が出入りできるように1m程度に広げ、中に入り土を掘っていった。
しばらくして遺骨が見つかったので、まず八重瀬町と戦没者遺骨収集情報センターに連絡し、遺骨収集作業を継続してよいか確認を取った。
関係機関から了解が得られたので、翌日1/19に遺骨収集作業に本格的に着手し、日本兵と見られる完全な状態の遺骨一体と多数の遺留品を発見した。
(3) 発見された「村本福次」のお守り
埋没壕の中から遺骨とともに水筒、靴底、飯ごうのふたや銃弾、ボタン、弾薬、陶器の破片などが土の中から次々と見つかった。その中に金の義歯もあった。
作業は壕内から取り出した土を丁寧に網でこして行われた。
遺骨収集作業は1/20に完了し、一体の遺骨と遺留品は、摩文仁にある戦没者遺骨収集情報センターに送られた。そこで遺留品を洗浄して身元発見につながる手がかりがないか分析作業が行われた。水筒についた土を洗浄していたところ、縦3cm、横2cm程度の銅製の金属製品が剥がれ落ちてきた。さらに金属製品を洗浄したところ、表に「村本福次」、裏に大日如来像が彫られていることが判明した。こうして奇跡的に72年の時を超えて、村本隊長の姿がよみがえってきた。
埋没壕の中から遺骨とともに水筒、靴底、飯ごうのふたや銃弾、ボタン、弾薬、陶器の破片などが土の中から次々と見つかった。その中に金の義歯もあった。
作業は壕内から取り出した土を丁寧に網でこして行われた。
遺骨収集作業は1/20に完了し、一体の遺骨と遺留品は、摩文仁にある戦没者遺骨収集情報センターに送られた。そこで遺留品を洗浄して身元発見につながる手がかりがないか分析作業が行われた。水筒についた土を洗浄していたところ、縦3cm、横2cm程度の銅製の金属製品が剥がれ落ちてきた。さらに金属製品を洗浄したところ、表に「村本福次」、裏に大日如来像が彫られていることが判明した。こうして奇跡的に72年の時を超えて、村本隊長の姿がよみがえってきた。
2.とまりんフェスタ2017「泊の歴史散歩」模様(H29.9/9~10)
 今年のとまりんフェスタ2017のイベントの一つである「泊の歴史散歩」が9/9~10の二日間に渡って実施された。これはバジルホール来琉200周年記念碑や泊外人墓地など8カ所を巡る泊のまちま~いである。
 我々泊文化交流協会が今年もガイド役として協力した。ガイド役は2014年から始めて今年で4回目の協力である。当日は二日間とも晴天に恵まれ、残暑が厳しい蒸し暑い日となった。参加者の皆さんは水分補給をして熱中症に気をつけながら全員元気にまちま~いを楽しんでいた。
・日 時:平成29年9月9日(土)~10日(日) 10:00~11:40(約100分)       
・コース:①バジルホール来琉200周年記念碑~②泊高橋と琉歌の石碑~③泊外人墓地~④ペルリ提督上陸記念碑~⑤松茂良興作翁顕彰碑~⑥天久宮~⑦泊之ユイヤギ御嶽~⑧天久山聖現寺       
・参加者:9月9日11名 9月10日7名                              
・ガイド:泊文化交流協会;多和田、玉城、真喜志 写真、文;真喜志
1日目 バジルホール来琉200周年記念碑
この記念碑は、1816年に琉球を訪問した英国人、バジルホ―ルの来琉200周年を記念して、昨年12月に設置された。バジルホールは、イギリス艦船の艦長で『朝鮮・琉球航海記』を出版して欧米に伝えて、ベストセラーとなった。彼は航海記の中で、「琉球の人々は文明化していて、武器も持たない平和な民である」と紹介して琉球を理想郷的に伝えた。また、ナポレオンと会見して、「武器のない平和な島」として琉球を紹介し、ナポレオンを驚かせた。
この記念碑は、1816年に琉球を訪問した英国人、バジルホ―ルの来琉200周年を記念して、昨年12月に設置された。バジルホールは、イギリス艦船の艦長で『朝鮮・琉球航海記』を出版して欧米に伝えて、ベストセラーとなった。彼は航海記の中で、「琉球の人々は文明化していて、武器も持たない平和な民である」と紹介して琉球を理想郷的に伝えた。また、ナポレオンと会見して、「武器のない平和な島」として琉球を紹介し、ナポレオンを驚かせた。
1日目 泊外人墓地
古くから22基の外国人の墓があったので「ウランダー墓」とも呼ばれていた。中国人(清人)、アメリカ人、イギリス人、フランス人、スェーデン人などの異国の人々が眠る墓地であった。代表的なものとして、バジルホールの部下で英国水兵ウィリアム・ヘアーズ(1816年没)やペリー提督の従者のジョン・バーンズ(1853年没)、オランダ屋敷に住んでいた宣教師で、沖縄県立中学校の英語教師でもあったヘンリー・アモア(1908年没)が眠っている。
古くから22基の外国人の墓があったので「ウランダー墓」とも呼ばれていた。中国人(清人)、アメリカ人、イギリス人、フランス人、スェーデン人などの異国の人々が眠る墓地であった。代表的なものとして、バジルホールの部下で英国水兵ウィリアム・ヘアーズ(1816年没)やペリー提督の従者のジョン・バーンズ(1853年没)、オランダ屋敷に住んでいた宣教師で、沖縄県立中学校の英語教師でもあったヘンリー・アモア(1908年没)が眠っている。
1日目 天久宮
天久宮は、石灰岩の上に建つ3層構造となっており、狭い土地に自然の地形を利用して配置した構造となっている。一番上に鳥居と貴布仁御世の御嶽があり、真ん中に拝殿と本殿、弁財天と泊龍宮神、弁天負泰彦大神の御嶽、そして一番下に泊之ユイヤギ御嶽となっている。創建は成化年間 (西暦1465~1487年)
鳥居の前で1日目の参加者の皆さんと記念写真。
天久宮は、石灰岩の上に建つ3層構造となっており、狭い土地に自然の地形を利用して配置した構造となっている。一番上に鳥居と貴布仁御世の御嶽があり、真ん中に拝殿と本殿、弁財天と泊龍宮神、弁天負泰彦大神の御嶽、そして一番下に泊之ユイヤギ御嶽となっている。創建は成化年間 (西暦1465~1487年)
鳥居の前で1日目の参加者の皆さんと記念写真。
2日目 泊高橋と琉歌の石碑
泊高橋は1700年に石橋に架け替えられ、その下を船が往来できるようにアーチ状にしたことからその名がついた。今も昔も那覇と中北部を結ぶ交通の要衝である。
琉歌の石碑には「泊高橋 になんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ明きて とめてさすら」と記されている。意味は、「泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった 夜が明けてから探しだすことができるだろうか」
裏の意味はもっと興味深い内容となっている。
泊高橋は1700年に石橋に架け替えられ、その下を船が往来できるようにアーチ状にしたことからその名がついた。今も昔も那覇と中北部を結ぶ交通の要衝である。
琉歌の石碑には「泊高橋 になんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ明きて とめてさすら」と記されている。意味は、「泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった 夜が明けてから探しだすことができるだろうか」
裏の意味はもっと興味深い内容となっている。
2日目 ペルリ提督上陸記念碑
東インド艦隊司令長官のペルリが日本との開国交渉の前に1853年に琉球へ来航したのを記念して建てられた。ペルリは泊港から上陸後首里王府の抵抗を押し切って、首里城を訪問した。記念碑の銘板には「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む1853年6月6日 大美御殿における招宴席上のペルリ提督挨拶」とある。
記念碑の前で2日目の参加者の皆さんと記念写真。
東インド艦隊司令長官のペルリが日本との開国交渉の前に1853年に琉球へ来航したのを記念して建てられた。ペルリは泊港から上陸後首里王府の抵抗を押し切って、首里城を訪問した。記念碑の銘板には「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む1853年6月6日 大美御殿における招宴席上のペルリ提督挨拶」とある。
記念碑の前で2日目の参加者の皆さんと記念写真。
2日目 天久山聖現寺
聖現寺は、真言宗の寺院で、本尊は正観音菩薩。
成化年間(1465~1487年)に創建され、天久宮の別当寺となっていた。
聖現寺はその昔外国人の臨時の居留地として利用されていた。また英国艦隊やフランス艦が来航した時は、宿泊所として聖現寺が割り当てられた。これは直接首里城に近づかせないための作戦だと言われている。
聖現寺は、真言宗の寺院で、本尊は正観音菩薩。
成化年間(1465~1487年)に創建され、天久宮の別当寺となっていた。
聖現寺はその昔外国人の臨時の居留地として利用されていた。また英国艦隊やフランス艦が来航した時は、宿泊所として聖現寺が割り当てられた。これは直接首里城に近づかせないための作戦だと言われている。

泊小学校教倫同窓会・泊文化交流協会

教倫の風いつまでも 平成18年6月に、戦後の泊小学校同窓会がこれまでの泊小校友会を発展継承して発足し、その伝統と歴史を引き継いで第一回の同窓会を開催した。同窓会は設立後、今年(平成27年)で9年目を迎え、その間写真集の発行や限定住所録の編集整備等の事業を終え、同窓会の名称も、「教倫堂」の教学の歴史から泊小学校教倫同窓会(略称、教倫同窓会)に改めた。
泊小学校教倫同窓会 泊文化交流協会
住所;沖縄県那覇市泊1-27-15  電話番号;098-863-7313  FAX番号;098-867-5261
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